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みなさんこんにちは、深沢千尋です。(公式ページ
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ここでは、多くは技術的でないこと、ごくまれに技術的なことをなげやりに書いていきます。
メールは suguwakaruPerl@gmail.com まで。(アットマークは ASCII に)
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フィクションとノンフィクションに違いはあるか?

小飼弾の「空気を読むな、本を読め」は好著であるが、その中で、「エンターテインメント目的の本(小説、フィクション)と、実用目的の本(ノンフィクション)を分けて考えるべきだ」という趣旨の発言があった。



以下、記憶に頼って要約するが、前者は最初から通読して最後に達するのが通常であり、ワクワク、ドキドキするものである。一方、後者は目次を読んで全体をつかみ、場合によっては知らない部分だけ拾い読みすることが出来る。優れたノンフィクション書物はモジュール化されているので、同一テーマの3冊の本ABCがあったら、Aを通読し、B、Cはダブらない部分だけを拾い読みすれば、1.5冊分の時間で3冊を読むことも可能である、的なハナシだったと思う。

ぼくはノンフィクションライターの端くれとして、最初はこの論に納得できなかった。
ぼくの本はバリバリのノンフィクションでありながら、あまりモジュール化されていず、通読することを基本としている。

これは、ぼくが受けてきた日本の国語教育に問題があると思う。
丸谷才一も「日本語のために」「桜もさよならも日本語」などで書いていることだが、日本の場合国語教育イコール文学教育である。



石川淳や小林秀雄がテクストになり、それを読解することが日本語力を高めることだ、という恐ろしい教育が行われている。
小林秀雄なんて普通の本(丸谷才一や筒井康隆や小松左京や・・・)がすらすらと読みこなせ、同じような文章が書けるようになってから、時間が余ったら余技で、趣味で読めばいいのである。
もちろん文芸評論家としての小林の業績は尊敬に値するが、あれを中高生が読んで日本語のお手本にするのはやり過ぎだ。
最近だと大江健三郎を読んで中高生が日本語を学ぶようなものである。

中高生なら誰でも知っている本の書き出しに「国境の長いトンネルを抜けると、そこは雪国だった。」「親譲りの無鉄砲で小供の頃から損ばかりしてゐる。」がある。
どちらも、文豪が書いているからありがたがって教師が子供に読ませるが、子供が作文の書き出しをこのように書いたらまず赤ペンを入れられる。
これは、田舎の教師や親が子供の文章を叱るときによく言う、「お前の文章には主語がない」というやつである。「雪国」の第一文にも、「坊ちゃん」の第一文にも、主語はない。

なくていいのである。主語、述語という考えは、明治以来に西洋語(印欧語)の文法を日本語に無理矢理当てはめるために導入したものである。
「春はあけぼの」の「春は」は主語ではない。
「私は、春の季節だと、日が昇る瞬間がすばらしいと思う」という意味で、主語は春ではなく、私(清少納言)である。
(この辺の事情は丸谷才一・大野晋の対談「日本語で一番たいせつなもの」に詳しい)



「メロスは激怒した。」という文章に主語らしきものがあるが(丸谷、大野説ではこれも主語ではない)、これも子供が作文で真似したら怒られるであろう。5W1Hがないからである。
当然なくていいのである。
「昔ギリシャのアテナイの町に、メロスという若者が行ったが、そこで行われている暴君の圧政を見て、彼は激怒した」と書いたら、おそらく「走れメロス」はここまでメジャーな小説になりえなかったと思う。
「雪国」ならこうなる。
「ぼくは先日山形県に旅行に行きました。汽車に乗っていきました。山形県との県境は長いトンネルがまたいでいます。汽車がトンネルから出ると、一面に雪が積もっていたので、ぼくはびっくりしました。」
子供の作文としては完璧だが、とてもノーベル小説級の文学作品にはなりえない。

しかし、大人になって役に立つのは文学作品を書く能力ではなくて(そんな能力は一万人に一人もあればいい)、きちんと(便宜上の)主語/述語、5W1Hというスキームに乗っ取った規格品の文章を書ける能力である。

「東京ディズニーランドは風が強く、母親はしじゅう文句を言っていた」そんな気取った書き出しの作文を書く子供はいやである。ここはやはり「昭和の日、お父さんとお母さんは東京ディズニーランドに連れて行ってくれました。その日は風が強かったので、お母さんはずっと文句を言っていました」とこうありたい。

大人になってからもこのような文章を書けるようになりたいものだ。「平成23年1月5日東京ビックサイトフォーラムBで行われた国際会議『日本語教育の未来を考える』について、ここにご報告いたします。」とか。よく知らないが。
「『日本語教育の未来を考える』--なんと大時代で居丈高なタイトルであろうか。そのようなシンポジウムに、この私が参加する破目になろうとは、この歳になるまで予想だにしなかったのである。」こんな書き出しのレポートを書く社員の未来は暗かろう。

要は、きちんと論理構造があり、誰が書いても同じ内容で了解できる、完結明瞭な文章を書けて始めて、そこに文学性を加味するべきである。
子供の作文などはもっと進めて、決まった内容の文を書かせるのがよろしい。
「別府駅から中部中学校までの道のりを100字以内で述べなさい」
これなら純粋な文章能力が分かる。
日本の国語教育は「何を書くか」と「如何に書くか」を混同している。
場合によっては「何を思っているか」「日本の少国民たるもの、何を思うべきか」ということまで干渉してくる。
国語教師が道徳まで容喙してくるのである。
ぼくは道徳教育の可否まで論ずるつもりはないが、国語教師が「ことのついでに・・・」道徳を国語の時間に論ずるのは間違いだと思っている。
この教育では意見と報告の区別が出来ない大人が育つ。

こう書くと、ぼくも文学的な文章と実用的な文章には明らかな違いがあるという、その違いを認めていることになる。
そして文学的な文章と実用的な文章をごっちゃに教えている(入力としては文学的な文章を読ませ、出力としては実用的な文章を書かせている)日本の国語教育に、ぼくをはじめとするあまりモジュール化されていない、通読を必要とする実用書が生まれる原因があると、ぼくは上に書いてしまったのかもしれない。

それは一理ある。

しかしながら、それを認めた上で、ぼくは実用書にもある程度非論理性、非モジュール性、通読が必要な、切れば血が出るようなところが必要だと思っている。
もしぼくの本が知っていることばかり書いてあったとしても、ぼくは読者に一通り通読して欲しいと思っているし、その方が理解が早いとも思っている。

エンターテインメントの文章の最たるものは推理小説であろう。
推理小説というのは特殊なもので、論理的な文章で書かれているが、本の書き方としては非常に非論理的である。
というのは、本の主題である犯人、手口、動機を、なるべく最後まで読者にわからせまいとしているからである。

もし実用書としてすぐれた推理小説であれば、このように書かれるべきだ。
「本書は1943年岡山市の一軒家で起こった殺人事件の概要を述べるものです。第1章では犯人と被害者の人となりについて説明します。第2章では犯行に至った経緯について説明します。第3章では犯行の手口について述べます。第4章では・・・」
しかし、これであれば、分かりやすくなっても、面白さはガタ落ちである。

推理小説では、登場人物が嘘をついたり、真犯人と誤解させるような疑わしい人物が登場したり(ミス ディレクション)する。
これが「読者をバカにしているようでいやだ」と言ったのは三島由紀夫であった。
しかしながら、これらの道具立ては「一巻置くあたわざる」面白さを生むために必要なものである。
読者にページをめくらせる、そのために、作者は重要な真実を読者から隠す。
その結果、読者は興味をそそられ、真実が明らかになるのを楽しみに、最初から最後まで順を追って読むのである。

ぼくは実用書であっても、なるべくなら面白く読んで欲しいと思っているし、勉強のつらさを軽減するために興味をそそる趣向もあっていいと思っている。よって謎を提起し、それを解くという手法を多用する。

もちろん実用書である以上、分かりにくい文章や誤解を生む文章はご法度である。
しかし、それは本来推理小説であっても純文学であっても適用されるべき原則であると思う。
読者は難解な文章を読み解きたいのではなく、内容で感動したいのであるから、感動に至るまでの文章は出来る限り明快であることが望ましい。
(だが書いてみると分かるけどわかりやすい文章を書くのって大変なんだよ・・・。)

さらに、最初から厳密で正確なことを書くと、初学者をかえって混乱させることもある。たとえば物理学では、まず物質を質点(質量はあるが体積はない物体)であると捉え、その運動法則を考察する。次に物質に体積を与え、移動ではなくその場で運動することも含めて考える。まずはニュートン物理学を学び、それだけでは説明できないことに出会って初めて、アインシュタイン物理学に進む。こうしないと、わけがわからなくなってしまうのである。

そういう意味で、実用書であっても、推理小説同様最初はウソで始まる。
不正確だが単純な世界で読者を遊ばせた後で、それでは説明がつかない現象を謎として提示し、その謎を解いていく過程を示していく・・・という書き方が、実用書であっても有効である。

であるから、実用書であっても通読は必要であるし、通読を要する本こそが学習者(初学者は特に)を助けると思っている。

ぼくの手本になっているのは「アシモフの科学エッセイ」であるが、彼の本は明らかに「だんだん真実が明らかになっていく」推理小説の手法が援用されている。しかしそれが、科学の明晰さを損なっていないのである。



もっとすごいのが受験参考書「なべつぐのあすなろ数学」であって、本がところどころ袋とじになっている。



勉強するものは問題を解いてからペーパーナイフで袋とじを割いて先に進む。
なんとも破天荒な本だが、これが孤独な受験生の生活をなんとも慰め、励ましたものである。

ということで、実用書にもエンターテインメントの手法は有効であり、通読はまあまあ必要であると言うだけのことを言いたかった冗長な文章であった。

さらに、これは篠沢秀雄が文章術の本で言っていたことだが、あえて分かりにくい表現を書いて読者をハッとさせる、文章を読むスピードをコントロールして(読み飛ばしを抑制して)内容をじっくり考えてもらう、というテクニックさえ存在する。

倉橋由美子の小説「パルタイ」には「オント」という言葉が出てくる。



フランス語でたぶん恥という意味だと思うが、カタカナ語としてこの言葉を使っている文章を、ぼくは他に知らない。
「こんなとき私はオントを感じる。」と言う風に、何の前触れもなく出てくるし、前後に何の説明もない。
ぼくはこの文章を読んだとき、知らない言葉が出てきたのでショックを受け、前後の文章が非常に印象に残った。
このように、不明な言葉を使うことも、時には効果が上がる。
実用書で(意図的に)それを使っているケースは(単に文章が下手で難解な文章になっているケースを除けば)まずないと思うが。

もっと進めば、タモリのハナモゲラ語的な「その彼の態度のケナマナしさ」みたいな存在しない言葉を使うということさえ可能であるが、実用書ではかなりの難易度であろう。
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