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深沢千尋

Author:深沢千尋
みなさんこんにちは、深沢千尋です。(公式ページ
文字コード【超】研究 改訂第2版NEW!」「すぐわかるPerl」「すぐわかる オブジェクト指向 Perl」の著者です。
ここでは、多くは技術的でないこと、ごくまれに技術的なことをなげやりに書いていきます。
メールは suguwakaruPerl@gmail.com まで。(アットマークは ASCII に)
Twitterはじめました。@query1000です。よろしく~

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反・速読法

最近流行りの自己啓発本には、必ずと言っていいほど速読法のススメが書いてある。
フォトリーディングというそうで、ポール・シーリィという人の本を読むか、10万円ほど支払って3日間のセミナーに出ることが勧められている。
ぼくが好きな本に合わせて載っていることが多いので、やった方がいいのかなあとも思う。
しかし、どうも気が乗らないのである。
理由を以下に書く。

ここで言う速読法は、まず「この本を読んでぼくは○○を身に着けます」という宣言(アフォメーション)を行なう。
アフォメーションはちょいとした一仕事をやり遂げる前にやっておくと必ず役に立つ儀式であるが、これを読書に対しても援用するわけである。
次に、本を読む順番としてまず題名を読み(これは当たり前)、目次をカバーの見返しの要約を読み、文庫本で言えば「解説」であるとか、「訳者あとがき」のような概説部分を読む。本全体のあらましを大づかみするのである。
そしてサーッと目を通す。ページをパラパラとめくり、すごいスピードで読む。
そして興味を引いたこと、本当に読むべき部分をチョイチョイと拾い読みで熟読する。実際の本は本当に役に立つことが4%とか11%とかしかないそうだ。昔よく聞いた「脳は実際には2割しか使ってない」とか「1%しか使ってない」という理論と似ている。(脳に関してはウソらしいが)
ひいひい言いながら大部の本を著している著作者としては、自分の本が4%とかしか役に立ってないと知ると忸怩たる思いもあるし、いやそんなことはないぞと反論したくなることもある。でもそう思う人もいるのであろう。

上の手続きを踏むと、これで読んだことになる。難しい本を一字一句おろそかにすまいと思って読み始めたはいいが途中でほうってしまったり、速読法であれば50冊読める時間に1冊の本をなめているのよりは、およそ役に立つと言う。

全体として、物事を大づかみに捉え、ざっくりと全体を通してやり、特に気になる部分は重点的にやり、完璧にこだわらない、拙速をとうとぶ、ということで、部屋の掃除とか他のことにもよく通用しそうなことを読書にも当てはめている。一面では合理的であり、読書にばかり時間を割いておれない多くの人に取って福音となる方法であろう。流行っているのはうなずけるし、多くの人が勧めるのもよく分かる。みなさんぜひやってください。

しかしぼくはやらないのである。

まず、カバーの見返しの要約や文庫の解説は、ぼくは絶対に内容を読む前に読まない。文庫の古典の名作はよく「オチ」まで雑な文章でバッチリ書かれていることがあるので要注意だ。古典の名作であればオチを知ってて当然と言うことだろうか。まだ知らないからこれから読むんだよ!(>_<)

いや、読まないようにしているのだが、ここは相反するものがあって、つい誘惑に負けて読んじゃうことがあるのだ。以前はこれが本当に問題で、本のカバーを捨てたり、解説の部分を定規で千切って捨てたことさえあった。最近は人間が出来て誘惑に負けずに内容を読むことができるようになった。

目次も読まない。まず内容を、まっさらな気持ちで読み進めて、初読の感動を大事にしたいのだ。前のページだけ読んでいたのでは想像さえ出来なかった展開が、次のページには広がっていて感動する。この醍醐味が読書の大半を占めていると言って過言ではないと思う。

こう書くと、小説のようなエンターテインメントと、技術書のような実用書では自ずと違うのではないか、速読法は後者のような本を「使う」ために存在するのだと反論されそうだ。なるほど、そういうことだろうとぼくも思う。しかし、ぼくは自分の本も最初から最後までワクワクしながら通読してもらうことを目標に書いているつもりだし、他の著者のであっても、ぼくが好きな技術書は、最初から通読することで感動するように書かれていると思う。

というか、ぼくは技術書であろうが実用書であろうが、初読の感動をモティベーションにして読み続ける方なのである。最初に目次を読んで、次に内容をペラペラめくると、感動が薄れる。本全体がなんとなく「読んだ・つもり」になってしまって、もう読まなくていいやと思うのである。いや、読まなくていいのなら読んだことになって、それなら速読法として合目的的だということになるのだが、そうなると速読法って読書ではないような気がする。(書いてて心配になったけどこの文章読んで意味分かりますか ;;;)

あと、本のすばらしさは本当に細かい、一字一字にあるのである。これは本当に実感することだ。

前にも書いたが、小林信彦の「天才伝説 横山やすし」という本は単行本と文庫本で文章が違う。
まず同じ本を単行本と文庫本で読み直すという時点ですごくヒマ人の行為であって、速読法が必要な忙しい人には信じられない行為かもしれないが(いや、そこまで皮肉っぽく書くこともないのだが ;;;)やすしに唐突な好意を示されて当惑する小林氏が、「やすしさんに『味方』と思われたのですよ」と言われる場面があって、単行本版ではこうなっていた。

 「『味方』と言われても・・・」
 ぼくはビールを飲む。

この現在形終止が(章の終わりである)ずいぶん思い入れたっぷりの文だな、クサいな、と単行本を読んだときぼくはちょっと思って、それがずっと引っ掛かっていた。それが文庫版ではこう書き換わった。

 「『味方』と言われても・・・」
 ぼくはビールを飲んだ。

過去形であり、文章としてはやはりこれが普通であろう。しかしこう並べてみると、もともとの単行本はやはり効果を狙って現在形にしたのであろう。しかしながら、著者もそれが「ちょっとやりすぎかな」「クサいかな」とたぶんずっと気になっていて、文庫本になって「普通になっちゃうけどやっぱりこうだよな・・・」と直したのだと思う。

それを、単行本のときは気になっていた読者のぼくがいて、文庫本になってそれが直っていたのである。
これが読書の喜びであるとぼくは思うのである。
しかしこれは速読法で検出できるのだろうか。
少なくともぼくには出来ない。
そう思うから、ぼくは速読法には手を出せないのである。

あと、まあ生まれつきオッチョコチョイのところがあって、本はもともと早読みのナナメ読みなので、もともと速読法が身についているとも言える。

あと、ぼくの場合最初から一字一字普通に読み進めて読んで感動したら、あらためて感動したところ、線を引いたところを中心に拾い読みし直すことがある。今言われている速読法の逆の方法だが、これは結構オススメ。
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