ずいぶん前に出た、それもベストセラーだが、恥ずかしながらやっと読んだ。
トシを取って目も悪くなり、面倒くさそうな本だな~と思っていたのだが、新幹線で名古屋に行く用事があって鞄に入れていた。
開くと引きずり込まれてしまい、一読巻を置く能わざる面白さというやつで、最後まで一気に読んでしまった。
新幹線で鉄道員が切符を改める時も、窓側に座っていた人がトイレに行くためにぼくの前を通り過ぎる時も、片手は本を読み続けていてもう片手で用を済ませたからずいぶん態度が悪い奴に見えたに違いない。
それほど面白くて読書が中断できなかったんです。
スマヌ。
中身はフェルマーの最終定理という数学の法則を300年以上に渡ってフランスで、ドイツで、日本で、そしてイギリスで、何十人もの数学者が寄ってたかって証明しようとした苦難の歴史をストレートで書いている。
以前ヴァイオリンが主人公の映画、というのがあったが、この本は数式が主人公の本である。
その数式はこんな形をしている。
n が 3 以上の場合、x
n+y
n=z
n になるx, y, zの整数の組は存在しない。
n が2の時は存在する。
x
2+y
2=z
2これは有名なピュタゴラス(ピタゴラス表記が一般的だが、本書の中ではピュタゴラスとなっている)の定理で、3つの数はzが斜辺の直角三角形の3辺の長さになる。
3つとも整数になる組をピュタゴラス数といい、(3,4,5)、(5,12,13)、(8,15,17)のような組が無数にある。
これが、3になると存在しない。
x
3+y
3=z
34のときも、5のときも存在しない。
何千、何万と数が多くなると計算も大変になるが、とりあえず2以外は絶対に存在しない。
でも、本当に存在しないのだろうか。
この話は有名で、倉多江美の漫画「イージー・ゴーイング」ではフェルマーの定理を説明した教師に生徒が「できることを証明するにはやってみればいいんでしょうけど、できないことを証明するのはどうすればいいんですか」と聞く。
できないことを証明するのは意外と難しい。
本書にも例が出てくるが、一般には背理法を使う。
♪ハイリハイリフリハイリホ~
という歌が昔あったが(ハムの宣伝?)(正確には「ハイディ」では?)、それとは関係なく、「もしxxができるとすると後で矛盾が生じる、よってxxはできない」という風に裏から行く。
たとえばマス目が1cm角のチェス盤があるとする。
8x8マスなので64マスある。
白と黒の市松模様に塗ってある。
この向かい合った2隅を切り取る。
マス目は62マスになる。
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一方、1cmx2cmのドミノ駒がある。
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これを31個使って、チェス盤をびっしり埋め尽くすことはできるだろうか。
できない。
・チェス盤はすべて白のマスと黒のマスが交互に置かれている
・よって、
もしできると仮定するとドミノ駒の半分は白マスを、半分は黒マスを常に覆う
・よって、チェス盤の白と黒は同じ枚数であるはずである
・しかしながら、上で切り取られたのは両方とも白マスであり、黒マスが2つ多い
・よって、切り取られたチェス盤をドミノ駒で覆うことはできない
Q.E.D.
みたいな。
さて、ピエール・ド・フェルマーはフランスに住む役人で、仕事の合間に趣味で数学をやっていた。
ディオファントスというギリシア人の『算術』という本を読んで、その欄外に、適当にその問題についての注釈をつけていた。
もともと別の数学者と文通をしていても「こういう定理がある」と書くだけ書いて、証明はあえて書かないという風な意地悪な人だったようだ。
ディオファントスの『算術』の中で
「x
2+y
2=z
2が成り立つ整数をピュタゴラス数という」
的なことが書いてあるその欄外に
「この式はベキ数が3以上になると成立しない。この驚くべき証明を私はしたが、この紙は狭すぎて書けない」
と走り書きしていた。
紙ぐらい足せよ!
と思うのだが、たぶん死後この書き込みがある本が発見され、世間で大騒ぎになることは前もって分かっていたので、それを楽しみにあえて書かなかったという話がある。
これが実際に解かれるまでに300年掛かった。
300年後にイギリスの数学者アンドリュー・ワイルズが行った証明は、すべての楕円方程式とモジュラー形式は対応するはずだという谷村=志村予想(たにむら=しむらよそう)の一部を使った証明で、フェルマーの時代にはまだなかった数学理論が使われている。
この理論をフェルマーが知っていて知りつつまったく書かなかったというのは考えにくいので、フェルマーが証明したというのは実はカン違いだったという説が強い。
n=4の場合はフェルマーはすでに証明している。同じ本の別のページで、別の定理を証明する時にサラッと書いてしまった。
n=3の場合は-1の平方根、つまり虚数を導入しなければならなく、それはフェルマーの死後100年、ガウスが証明を行った。
フェルマーはn=4の時に使った無限降下法という方法(九州大学の入試でよく出るという噂の数学的帰納法の応用)が、他の数の時も適用できるとカン違いしていたというのだ。
あるいは証明できていないのにできたとウソを書いていた可能性さえあると思うのだが、なぜかその可能性にはこの本も触れていなかった。
あるいは、ワイルズの証明よりももっと簡単な証明があって、それをただ我々は見過ごしていただけ・・・という可能性もある。
その可能性を信じて、いまだにこの問題に挑戦している数学者がいっぱいいるそうだ。
どうです面白いでしょう。
本書は他にも、学校の先生が本筋の合間にする面白エピソード的なものがいっぱい詰め込まれている。
こういうエピソードばっかり覚えているのはバカの証拠だそうだが、ぼくはこういう話が大好きだ。
・ピュタゴラスの最初の弟子は一人の少年で、ピュタゴラスは彼に勉強を教えさせてもらう代償として彼に銀貨を3枚渡していた。ある日ピュタゴラスはこの生徒の少年(彼もまたピュタゴラスと言った)に試しに「お金がもうないので授業をやめなければならない」と言ってみると、果たして「先生、授業をやめるのはいやです、お金はこちらから払います」と言った
・ある日ピュタゴラスの弟子、ヒッパソスが2の平方根(1.1421356・・・)はどんな整数の割合でもない(無理数である)ことをピュタゴラスに提唱したが、ピュタゴラスは宇宙は有理数で出来ているというその信念を曲げることができず、ヒッパソスを溺死による死刑にした
・エウクレイデス(ユーグリッド)がプトレマイオス三世時代にアレクサンドリアの図書館で数学を教えていた時、ある少年が「先生、その数学はどんなことに使えるのですか」と質問をした。授業の後でエウクレイデスは従者に向かって「あの少年に小銭を与えなさい、彼は学んだことから実利を得たいようだから」と言って少年を放校にした
・曲がりくねった川の流路の長さは、水源から河口までの直線距離のおよそ円周率倍になる。この規則はシベリアのツンドラやブラジルのアマゾンのような、非常になだらかな平原を流れる川について特によく成り立つ。この規則を最初に提唱したのはアインシュタインである
・1972年の秋、ニクソン大統領は「インフレーションの上昇率は減少しつつある」と言ったが、これは物価の上がり方の上がり方が減っていると言っているのであり、数学者のヒューゴー・ロッシによると、現職のアメリカ大統領が3次導関数(微分関数の微分関数)を演説に用いた最初の例である
・26は25と27に挟まれているが、25は5の2乗、27は3の3乗である。整数の2乗と3乗に挟まれた整数は、26以外にはない
・セミの一種ジュウサンネンゼミは孵化してから13年目に羽化する。ジュウシチネンゼミは17年目に羽化する。13と17は素数であるが、素数であるがゆえに寄生虫に滅ぼされずに生き延びているという説がある。(詳しくは本書にて)
・31、331、3,331、33,331、333,331、3,333,331、33,333,331はみな素数であるが、333,333,331は素数ではない(17×19,607,843)(こんなこともあるから、どんなに大きな数までフェルマーの最終定理が成り立つからといって、ずっと成り立つとは言えない)
ずいぶんネタバレしたようだが、こういう、もし唐沢俊一氏の『一行知識掲示板』がまだあったらぼくは狂ったように書きこんでいただろうことがほぼ1ページに1個は出てきて500ページ、820円である。安い!
さて、本書を読んでいてムカッと来たのは、翻訳者の青木薫さん(物理学者)もあとがきで書かれているのだが、前半の方で繰り返し、自然科学に比べていかに数学がすぐれているかが何度も書かれている。自然科学者は適当に理論を提唱して、当てはまらない事象があったら適当に理論を修正するが、数学者は最初から最終的な証明のない理論は
まったく価値がない、ということのようだ。
そうだろうか。究極の素粒子の世界、あるいは、究極の宇宙全体の世界になると、自然科学はたぶん数学と同じものだ。ただ、自然科学者は(アスピリンがなぜ頭痛に効くか分からないまま、とりあえず効くから医師は投与し続けたように)現実の要請から近似を受け入れるだけだ。近似が近似であるというその限界を弁えている限りは、自然科学者も厳密だと思う。それに「あの人はxx学者になるほど頭がよくなかったからxx学者になった」という言い方をするのは素人やとぼくは思う。(なぜ急に関西弁)
ちなみに『フェルマーの最終定理』の作者のサイモン・シンも物理学出身の人だそう。
ところで、小飼弾さんが「英語の本が手っ取り早く読めるようになるには、内容も訳文も大好きな和訳書を暗記するぐらい何回も読んでから原書に当たるとよい」と書いていて(dankogaiさんは矢野徹訳の『デューン 砂の惑星』を勧めていた)、この方法は鳩山由紀夫氏も言っていたそうだが、本書なんか好適なのではないだろうか。
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